発言を肯定することの違和感 2020年2月25日
どうもこんにちは!
昔から片付けが大の苦手で、プログラミング学習中の今でも、類似する機能を一つにまとめる(片付け)に大苦戦している中嶋孝史です。(あだ名じゃなくて、なんか肩書つけるといいかもと今浮かんだ、○○○○中嶋孝史ですみたいな)
いつも無駄なことを書いて、30分で書ききれてないことが多々あるので、本日はさっそくテーマに入ろうと思います。
本日のテーマは
発言を肯定することの違和感
です。
はじめに
大学に入ったあたりから、自分の世界が学校から多方面に広がって、年齢・性別問わずいろいろな方と話をしていく中で、話がうまい人(話しやすい人)って間違いなく聴き上手で、その中でも自分の意見をよく聞いてまず肯定から話を続けてくれるなと感じていました。
これは結構いろんな人に共感されることだと思います。また著名人や仕事でうまくいってる人も同様のことをよく言っていたりします。
自分も間違いなく話し上手(聞き上手)になりたいので、ここ3年感くらい意識的に肯定を続けていたのですが、ふと先日気づいたことがありました。
それは「肯定することを意識しているのにも関わらず、肯定できない話も多々あるということです。」
肯定できない話
3年間意識的に「そうだね」や「確かに」から会話を返すようにしていたのですが、ふとした瞬間に「いやっ」や「ちょっとまって」と緩く否定的に返して話し始めている自分がいることに気づきました。
なんで否定的な返しをしてしまうか考えてみたのですが、どうも自分の考えが合わないから否定しているのではなく、相手が話している内容が相手の意見じゃないからという理由が大きいのではないかと思いつきました。
もう少しかみ砕くと、相手が考えた内容ではなく「世間一般的にはこうだよね」という話を振られたときに必ず自分は「いやっ」と返します。私の知り合いの方はよかったら試してみてくださいww
なぜ一般論を否定するのか
じゃあなんで一般論で話しかけられると自分は否定で返すのかを考えてみます。
これは結構昔からなのですが、左右に分かれた道があったときにどちらの道に進んだとしても自分に実害がない場合(たまに自分に実害があったとしても)その場にいる大多数が選んだ道が本当にあっているのかを考えるために必ず少数派に着くようにしています。
簡単に言うと、筋金入りの天邪鬼なのですが、皆が右といった道に進んだ時に失敗して、そこの責任の所在が曖昧になるのが、すごーく嫌なのです。
そのため、少数派(ときに自分ひとりだけ)について、大多数にこっちの道(左)の方がいいよと問いかけることで、一度議論の場所を設けて、そこで話し合った結果自分が示した道に決まったのであれば、そこの責任は自分になりますし、話し合ってもやっぱ右がいいよねとなって、それが間違いであったときも、説得できなかった自分の責任になります。
なんだか損だけど、責任を取りたがる人間みたいです(-_-;)
あとは石橋を叩いて渡るじゃないですが、何も考えずに前に進めない臆病者なのかもしれません。
まとめ
というわけで、今後私と関わってくださる方へ
基本的には話を肯定することで、聞き上手になろうとしていますが、たまにめんどくさい天邪鬼の私も出てくるので、その時は心ゆくまで付き合ってあげてください。
きっと私にすごく懐かれると思います。(こんな終わり方にしたかったっけ?ww)
それでは本日も最後までご覧いただきありがとうございます。
また明日もよろしくお願いいたします。